幼年時代

第1景 幼年時代 (誕生)

第一部第1景 幼年時代

(その1)・誕生

昭和11年(1936年)10月3日、私の誕生日だ。生まれ年は子年。四柱推命では一白水星、星座は天秤座。産声を挙げたのは、明け方の5時ごろだったと母に聞いた記憶がある。名前は璋貞(あきさだ)と命名された。徳島県阿波池田の祖父がつけてくれたそうだ。生地は岡山県都窪郡中洲村大字酒津、現在の倉敷市酒津である。

Photo_3 父、恒雄26歳、母、君代20歳の長男として、この世に生を受けた。当時、父は既に倉敷レイヨンに奉職していて、私が生まれて程なく召集を受け、入隊したそうだ。

昭和11年と謂う年は2.26事件の発生したことでよく知られているが、少なくとも近代日本史の上で記憶に残る年であったことに異論はあるまいと思う。

それにプロ野球が誕生した年でもある。初の公式戦は巨人軍がタイガースを破って優勝した。また、第11回オリンピックが開催された年で、女子水泳の前畑選手が日本女子初の金メダルを勝ち取ったおめでたい年でもある。

幼い頃の記憶はほとんどない。私の出生にまつわる話を成人後、母から聞かされて大きなショックを受けた思い出があるが、それはさておき、ここではまず、今は亡き父母のことから語っておきたい。

父、恒雄は明治43年(1910)3月9日、戌年の生まれ。生地は愛媛県宇摩郡川滝村、現在の愛媛県四国中央市川滝町で、大西喜平、妻ワキの六男だった。上から記しておくと、長男清作、次男桂五郎、三男良助、四男伊平、五男利一、六男恒雄となる。利一と恒雄の間に唯一の女性、長女のトミがいた。

父は地元の三島中学から旧制静岡高等学校へ進み、帝大(現在の東大)工学部機械学科に入学した。それが当時、長兄清作が村長を務めていたこともあって、ひとしきり村の大きな話題になったそうである。目出度く卒業後、繊維メーカー倉敷レイヨンに入社し、母と見合い結婚した。Photo_4

片や母の君代は、徳島県三好郡阿波池田町で、大正5年(1916)11月25日に久保添真四郎、妻くらの長女として誕生した。五男二女の長女である。

                                                                 

こちらも上から記すと、長男忠司、長女君代、次男久、三男実、次女文子、四男高徳、五男晴意(はるおき)となる。晴意さんは私より3歳年上だった。

                                                  Photo_5 私の祖父にあたる真四郎は祖谷(いや)の出で、阿波池田では立志伝中の人物だったそうだ。秘境で名高い祖谷から出てきて、一代で徳島県でも名の通った久保添薬局を創設したと聞いた。優に200坪は超える土地に店と屋敷を構え、庭には300鉢を越す松などの盆栽が見事に並んでいた。

 結婚前の母には何処へ出かけるにも小僧さんのお供がついていたそうである。そんな母と父の結婚は小さな町の大変な噂話になったであろうことは想像に難くない。

「相手は帝大出の学士さんじゃそうな」

と。ひとしきり噂の的になったそうだ。

Photo_6

人口約2万8千人の山間の町、池田町は大西城の城下町として発達し、葉タバコや刻みタバコの製造がさかんであった。また交通の十字街道上にあり、交通集落としても発達している。

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病弱で寝てばかり・・・幼年時代

          幼年時代・その2

父母のことはこの位にして、そろそろ私自身のことに戻ろう。父の出征後、母は赤ん坊の私を連れて阿波池田の実家に身を置いていたが、幼い頃の私は病弱だった。いつも私専用の一間で寝かされていたのを覚えている。

薬はお手の物だけにいろいろ飲まされたが、中でもあのひまし油だけはイヤでイヤでならなかった。3,4歳頃からは少し元気になったらしいが、それでも寝ていることが多かったように思う。そんな時の楽しみは町の本屋さんが持って来てくれる絵本だった。

キンダーブックや桃太郎、一寸法師、さるかに合戦などを枕辺から離さなかったと聞いた。まだ幼児の頃、父が軍隊から休暇で帰ってきたことがあったが、人見知りをして抱かれるとイヤイヤをし、じっとしていなかったそうだ。さぞかし父はがっかりしたことだろうと思う。無理もあるまい、物心つく前に父は出征して家にはいなかったのだから。

私が3歳の誕生日を迎えて間もない昭和14年(1939年)10月21日、妹の俊代が生まれた。

祖父母、高徳、晴意さんと

祖父に抱かれている俊代

S17・1・14撮影

Photo  幼い頃の私は汽車を見るのが大好きだった。阿波池田の駅までは大人の足でも20分はかかった。それをほとんど毎日のように連れて行ってくれとせがんだらしく、母は音を上げて祖母に頼み、祖母が行けない時は、高徳さんや店の小僧さんにお鉢が回ったそうである。

又、本が好きだった私は、晴意さんが買っていた漫画の“のらくろ”や“冒険ダン吉”が愛読書で、夢中で母に読んでもらっていた。

特に”のらくろ”は大好きで入隊して将校になるまでが面白く遂には晴意さんから本をせしめてしまったようだ。

ところで大西姓の由来はどこからきたものであろうか。ものの本によれば発祥地が三好郡大西(現在の徳島県池田町)に限定される珍しい姓であるという。池田は四国のヘソであり、大西城があったところだ。四国地方に非常に多い名字である。一方、久保添という名字も珍しい。滅多に見受けない名前だ。祖父が秘境祖谷の出だけに先祖は平家の落人かも分からない。

父が後年調べたところでは大西家のご先祖は、源氏のゆかりの武士だったらしい。久保添も士族だったそうだから、父母が時々源平合戦を繰り広げていたのも納得いく次第だ。

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軍靴の音が遠く低く・・・幼年時代

                幼年時代 (その3)

やがて第二次世界大戦が勃発。世の中は次第に戦時色一色になっていったが、片田舎の池田はまだまだのんびりしたものだったように思う。真珠湾攻撃、太平洋戦争が始まった昭和16年、私は5歳になっていたが、どこ吹く風とばかり、広い家の廊下を俊代と一緒に走り回り、母と祖母に叱られてばかりいた。父はこの頃には既 に戦地の満州に渡っていたようだ。

 昭和17年(1942年)、我が家を最初の悲劇がおそった。年初めの1月2日、次女の康子が生まれたが、同月の23日には死去。僅か2週間の命だった。母の嘆きはいかばかりだったろうか。

 

Photo_8 この年、私は阿波池田の幼稚園に入園したが、子供の足で30分近 くかかる高台にあった園まで一人で通っていた。

尾篭な話で恐れ入るが、ある日、お腹の調子が悪くて幼稚園の帰り、必死に走ったが我慢しきれず途中で漏らしてしまった。股の間にウンチを挟んだまま、ガニ股でよたよた帰り着いた私を母は笑いながら始末してくれたが、その違和感は、未だに忘れられない情けない思い出である。

当時、私は蚕(かいこ)を飼うのに夢中だった。俊代と二人で毎日蚕だなを覗きこみ、やがて繭を作り、さなぎになり、中から成虫が出て来ると歓声を上げたものだ。その変化の過程が子供ながら面白かったのを覚えている。10日ほどで成虫が卵を産んで死ぬと、映画”禁じられた遊び”よろしく二人で仲良くお墓を作ってやったものである。

 池田の家の応接間には槍や刀が飾ってあったが、それがいつの間にか見えなくなったのはこの頃であったろうか。「金属回収令」が発動されたからである。

見るだけのものだったが、中々見事なものであったのを覚えている。Photo_2

                                                    いつだったか実叔父さんが薬専から帰ってきた。岐阜薬専だと聞いたように思う。実さんは私の大好きな叔父だった。私と俊代の相手をしてよく遊んでくれたものだ。

犬もいて、叔父さんのいないときは俊代と私は犬を相手によく戯れたものである。と云うより犬に遊んで貰っていたというべきだろうか。

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