国民学校時代

第2景 国民学校時代 戦火の影は山里にも忍び寄る!

      第2景 国民学校時代(その1)

                  

昭和18年(1943年)、私は池田国民学校に入学。幼稚園と隣り合わせに学校があり、桜並木が満開になっていた。尋常小学校は池田の町を見下ろす高台にあり、大西城の城跡だった。町の反対側には吉野川の清流がとうとうと流れているのが遠望出来た。小学校の隣が中学、その西隣に池田高校があった。

学校へ行くようになって、妹の俊代とも遊ぶ時間が少なくなっていたが、蚕を育てるのに相変わらず二人で夢中だった。俊代は私が学校から戻るまでにおやつやお菓子を貰っても、必ず「お兄ちゃんのは?」と私の分を要求し、「お兄ちゃんと一緒に食べる」と私の帰りを待っていた。そうして、おやつをうまそうにパクつく私の顔をのぞきこみ、「おいしい?」と尋ねるのが常だったそうである。

 そしてこの年・・・第二の悲劇がやって来た。多分、玉蜀黍を焼いて食べたあとだったと思う。俊代と母の末の弟、晴意(はるおき)さんが腹痛のため枕を並べて床についてしまった。赤痢か疫痢だったそうである。

 俊代と晴意さんは何度も死線をさ迷ったが、9月10日、俊代は遂に天国に召されて逝った。晴意さんも同じころ危なかったが、危機を脱したあと、母に云ったそうだ。

「とっちゃんと手をつないで歩いていたら、向こうの方にきれいなお花畑が見えたの。僕はもう帰ろうと言ったんだけど、とっちゃんは、わたし、見に行ってくると、僕の手を振りほどいて行ってしまったんだ。」と――。

 康子に続く俊代の死は、母を完全に打ちのめした。その心の痛手から立ち直るまでどれほどの年月を要したであろうかと思う時、今も私の心は痛む。死の実感の乏しかった私はその後数ヶ月間、「とっちゃんはどこへいったの。」と聞いては母を涙ぐませたそうだ。

 戦争が苛烈になるにつれ、山間の阿波池田の町にも物資不足の波が訪れてきた。私たち子供も学校での授業はほとんどなく、畠で芋のツルを取ったり、食料用に蝗の採集をしたり、桑畑で働いたりと毎日が畑仕事に追われる始末だった。

 いつ頃だったかはっきり覚えていないが、米軍の偵察機と遭遇したことがある。学校の帰り道、道草して吉野川を見下ろす高台にいた時、突然爆音がしたと思うと、眼前に飛行機が現れた。機体に星のマークがはっきり見え、操縦席にまだ若いアメリカ兵の顔が見えた。あっという間もなく機影は吉野川の上空を水面すれすれに飛び去って行った。

家に帰ってそのことを叔父たちに夢中で話したが誰も本気にせず、「訓練飛行のゼロ戦と見間違えたんじゃろ」でおしまい。それでも機体の星マークと若いアメリカ兵の顔は長いこと頭の中に残像として残っていた。これが私にとって初めての戦争体験だったと思う。

 次第に戦火が激しくなり始めた昭和20年(1945年)頃には、上等兵に昇進していた父が除隊して満州から帰還し、クラレに復職していた。満州の猛烈な寒さや、市場で人肉が売られていた話を父から聞かされた覚えがある。

父と満人の娘

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そして、春ごろには永年住み慣れた阿波池田から岡山市大元に移り住み、大元郵便局の二階に間借りし、父はここから岡山港に近い福島にある倉敷レイヨン岡山工場に通勤していた。

 

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岡山空襲の惨劇!! 国民学校時代

       国民学校時代(その2)

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昭和20年(1945年)6月29日の岡山空襲は忘れられない。ラジオから流れるニュースが耳に入り、「敵機は○○上空にあり、岡山方面に向かって飛行中。」と告げるより早く、頭上で爆音が聞こえていた。私は暗い中で「早くこれを着て外に出なさい。」と母にせかされてモンペを無理やり穿かされ、防空頭巾をかぶせられて外に飛び出した。そして、畑の中にゴザを敷いた上に母と座り真っ赤に染まる市内の中心部を呆然と眺めていた。父の姿が無かったのは、多分工場を守るために缶詰になっていたのだろう。

                            

探照灯の光、上空で炸裂する高射砲弾の火花、B29の黒い機影、落ちていく焼夷弾、爆発音。私は生まれて初めて見る光景に魂を奪われ、彼方の上空を見上げているばかりだった。真っ赤に染まる空の下でどんな惨劇が起こっているのか当時8歳の私にはその時想像すら出来なかった。

                            

 

一夜明けた翌日、私は母の目を盗んで一人で学校の様子を見に出かけた。小川には死体が浮き、道端には呻き声を上げている人が何人もいた。中心部に近い学校は跡形もなく、残り火がくすぶる中で瓦礫の山と化していた。

 丁度同じころだったかもしれない。私の将来の最愛の伴侶となる少女も、帰らない祖父の身を案じて焼け跡を探し歩いていたそうだ。靴底が熱で溶けた運動靴を履いて足の裏を火ぶくれにしながら・・・。ひょっとするとどこかで出会っていたかもしれないと思うと、運命を感じる。彼女が疲れ果てて家に戻ると、祖父は無事に家に帰っていたそうである。

この岡山空襲で岡山市は市街地の大部分を焼失し、死者は1700人、焼失家屋は2万5千戸に上ったと聞く。

 8月15日、敗戦の日を迎えた。玉音放送がラジオから流れ、大勢の大人たちが声を上げて泣いているのを見て、不思議に思ったものだ。蝉の声ばかりがやたらと耳についた日だったように記憶している。

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学校が始まったのがいつごろだったか分からないが、墨で真っ黒に塗りつぶされた教科書は何も読めず、母がワラ半紙で教科書を作ってくれたのが嬉しい思い出として残っている。

 こうして私の幼年期は過ぎ去り、人間としての骨格を創っていく少年期から青年期に入っていく。日本の新しい旅立ちとなる終戦を区切りに、ここで場面は変わる。

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進駐軍がやって来た・・・国民学校時代

        国民学校時代(その3)

 

昭和21年(1946年)2月12日、弟の尭が、母の里、阿波池田で生まれた。父はこの頃には岡山市のはずれ、クラレ岡山工場に近い福島の北社宅に移っており、私も空襲に遭わなかった福浜の国民学校に転校していた。当時の私はまだ4年生だった。

                         Photo_4     クラレ時代の父                                                                                                      

学校は人家もまだ少ないところにあり、片道、3,40分はかかり、辺りには畑やメダカが遊泳する小川が流れ、花咲き小鳥が啼き、蝶の舞うのどかな風景の中にあった。

学校の側を産業道路と呼ばれる未舗装の道路が、ほぼ一直線で岡山市内に向かって伸びていた。道路を走る車はまだ少なく、路線バスか、まれにトラックが走る程度で圧倒的に多かったのは、その頃、岡山に進駐して来ていた米軍のジープや幌つきの輸送トラックだった。

 学校からの帰り道、私たち子供はそんなジープやトラックをよく停めた。「ヘイ、ストップ!」と、誰か一人が車の前に飛び出して大声で叫ぶ。そして、停まってくれた車に我勝ちに乗り込むのだ。若いアメリカ兵は笑いながら乗せてくれた。

学校からの長い道のりを歩かずに済むのは助かったが、それ以上に嬉しかったのは、チョコレートやチュウインガム、時にはタバコなどをくれたことだった。

そして、社宅のバス停の近くで、「ヘイ、ストップ!」と声を上げて停めてもらう。キャメルやラッキーストライクなどのタバコをせしめた時はホクホク顔で家に帰り、父の帰りを待ちかねて渡したものだ。嬉しそうに早速封を切ってタバコを吸う父の顔を見て私は大満足だった。

 しかし、こんなことは永くは続かなかった。学校の先生にやめるように注意され、MPも目を光らせるようになったからである。それでも戦利品をせしめるのに味を占めた私たちはなかなか素直にやめようとはしなかった。

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一度、やっと停まってくれた幌つきトラックに一人で転がり込み、立ち上がろうとした時である、やにわに大きな手で頭を床に押さえ込まれた。何事が起きたのかと一瞬頭を上げた私の目に映ったのは、10メートルほど向こうの反対車線に停まったMPのジ-プだった。

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手の主は小声で何か言って、私の頭を又も力まかせに押さえつけ、ジープを降りようとするMPに何事か怒鳴った。MPと二言三言やりとりがあった後、ジープは走り去った。

暫らくして大きな手が頭から離れ、手の主に私は引っ張り起こされた。それは黒人兵だった。動き始めたトラックの中で、黒人兵は「ソーリー」と云って、ケガがなかったか私の顔や頭を仔細に調べてくれた。

やがて社宅前で停めてくれた車から彼は私を抱き下ろしてくれ、頭を撫でながら何事か云って、いろんな品物を一杯持たせてくれた。手を振ってくれる黒人兵に、私も「サンキュウ、ベリマッチ」と大声で答え、トラックは走り去って行った。

この時の戦利品は殊の外両親を喜ばせた。缶詰やタバコにジュース、チョコレートやお菓子まであった。母は喜びながらも、「もう二度と乗るんじゃないよ。兵隊さんに迷惑をかけるからね。」と注意してくれた。

これから後、私は二度と車を停めようとしなかったし、ごく稀に学友の停めた車があっても、決して乗り込もうとはしなかった。

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貴重な蛋白源 トーチカ!! 国民学校時代

      国民学校時代 (その4)

この頃の食糧難はひどかった。米の飯にありつけることなど、めったになかった。私たちの木造二階建ての社宅の家は、階下に五部屋、二階に二間ある広い家で、塀に囲まれていた。社宅の中には二階建てと平屋建ての家があり、どの家にも5,6坪の庭があった。そして、どの家も庭は畑と化していた。

母は父を工場に送り出すと、赤ん坊の尭を背中におぶって、近郊の農家へ買出しによく出かけたものだ。私も時々は一緒に出かけ、重い野菜を持って帰った。家の中にあった貴重品や母の着物、父の服、どれだけのものが食料に化けただろうか。それでも米が手に入ることは稀だった。

学校から帰ると、私にはある仕事が待っていた。釣りである。釣りは釣りでもトーチカ釣りだ。トーチカとは岡山地方の呼び名で、別名アメリカザリガニ、形状はエビそっくりだが、色はこげ茶色だった。

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釣り場は社宅のそばを流れている小川で、1メートルほどの竿を手にバケツを傍において、座り込んで早速釣りにかかる。餌は岸近くにいるトーチカを1匹捕まえて、甲羅を剥き尻尾の肉を取り出し、それを糸の先にくくりつける。そしてやおら水の中に下ろしてやる。トーチカという奴は共食いだ。糸を下ろす間もなく食いついてくるのが見えると、素早く引き上げ、バケツの中へ落としこむ。

1時間もしないうちに、バケツの中はゴソゴソ這い回るトーチカで一杯になる。そしてその戦果を持って意気揚々と家に帰るのだ。母は七輪に乗せた金だらいに湯を沸かして待っていて、取ってきた獲物を生きたまま、たらいの中に落とし込み、茹で上げる。真っ赤になったトーチカの殻をむくのはほとんど私の仕事だった。

バケツ一杯のトーチカも、頭をとって身だけになってしまうとほんの僅かだ。それでも夕食の食卓に天麩羅になって並ぶと、貴重な蛋白源になった。主食は芋がゆか芋雑炊、すいとんなどで毎日が水ぶくれだった。この頃に流行っていたのが、ラジオドラマの「鐘の鳴る丘」で、私もよくラジオで聞き、主題歌を歌ったものである。

トーチカ釣りも毎日のようにやっていて次第に飽いてきた。私は釣竿を買って貰い、魚釣りに出かけるようになった。社宅の北側が旭川の河口で、歩いて5分もかからなかった。日曜日には夕方まで岸壁に腰を下ろして、魚釣りに精を出した。

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獲物は僅か数匹で、小物ばかりだった。それでもたった一度であったが、大物を仕留めたことがある。糸をグイグイ引っ張られ、それまでと手ごたえが違っていた。そばで見ていた近くの叔父さんが真剣な顔でアドバイスしてくれた。やがて吊り上げた獲物は、大きなチヌ(黒鯛)だった。「坊主、大物を仕留めたな。」と叔父さんがほめてくれたのを覚えている。その夜の食事にチヌの刺身が出たのは云うまでも無い。私は大得意だった。

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夏休みに入り、池田の久叔父さんがリュックに米や名物の羊羹、農作物などを詰め込んで訪ねて来てくれた。久さんは母のすぐ下の弟だ。母は喜んで迎えた。持ちきれないほどの荷物が余程嬉しかったのである。

「よう臨検に遭わなんだもんじゃな」

夕方、会社から帰って来た父が言うと、久さんは笑って答えた。

「警官の姿を見かけたら、忍術を使うたんよ。ヒュードロンと・・・」

当時は列車などで経済警察の臨検がよく行われてた。米などは見つかると即没収されたものである。

夏の暑い日のこと、久さんが私を泳ぎに連れて行ってくれた。家から10分程の旭川河口の一隅だ。私はまだ泳げなかったように思う。

「よしっ、わしが教えちゃる!」

と云うより早く背の立つ所でバチャバチャやっている私を掴まえると、深いところへ投げ込んだ。

私は必死だった。思い切り塩辛い水を飲んだ。浮かんでは沈み、浮かんでは沈みしていると久さんが掴まえてくれた。手荒な教え方だったが、3度、4度と繰り返して放り込まれると恐怖感はなくなり、最後には深い場所で水に浮いていられるようになっていた。

3日ほど泊まって久叔父さんは帰ったが、その間、毎日のように泳ぎに行ったり、釣りに行ったり、ボール投げをして、私を相手に遊んでくれた。

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連絡線も列車も難行苦行!! 国民学校時代

      国民学校時代 (その5)

学校が冬休みになると、母は私と尭を連れて実家の阿波池田に向かった。家を朝出て、池田に着くのは早くて夕方、遅い時は夜だった。

家から社宅前のバス停までほぼ10分、路線バスに乗って市内の清輝橋に出て路面電車に乗り、ようやく岡山駅に着く。そして宇野行きの列車に乗り込む。列車はいつも満員で私は母の席取りに必死だった。

岡山から宇野までの時間は長かった。宇野からは四国の高松まで連絡船上の人となる。船の中も一杯の人で船室の畳の上でくつろげることは難しかった。それでも母は幼い尭を連れていることもあって、畳の上に座らせて貰っていた。

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後年、沈没した紫雲丸には何度乗船したか分からない。宇野から高松まで約1時間、高松港が遥か彼方に見えて来ると、私は母を船室に残して下船口に向かう。下船の20分以上前から、もう人が群がっていた。

私は大勢の人を掻き分けながら、出来るだけ下船口の近くに荷物を持って陣取る。船が高松港に接岸し、喧騒の中、下船が開始される。私は大人たちに押されながら桟橋に降りるや、今度は荷物を手に脱兎のごとく長い長い桟橋を夢中で走る。

後から走ってきた大人たちがどんどん私を追い抜いていく。遅れてならじと私は必死に追いかける。この桟橋は当時、俗にマラソン桟橋と呼ばれていた。

ハアハアいいながら、心臓が口から飛び出しそうになる頃、やっと桟橋を抜けて土讃線の列車の待つホームが見えてくる。私はあと少しだと元気百倍、列車の中に飛び込む。席に座るまばらな乗客に一安心してホーム側に席を取り、横に荷物を置く。そして後から来る母と尭を待つのだ。

大分遅れて尭を背負った母の姿が見える頃には、車内はほとんど一杯の人で溢れていた。私は母が席に座るとほっとした。

当時、客車の窓という窓はほとんどガラスがなく、板を打ち付けている有様で、車内から外の風景を見ることはほとんど出来なかった。

発車のベルが鳴り、ガクンと一揺れして汽車が動き出す。これから2時間近く我慢しなければならないのだ。と云うのも、土讃線はトンネルがやけに多く、やっと出たと思うとすぐに次のトンネルに入る有様で、蒸気機関車の吐き出す煤煙と白煙が車内にモウモウと立ち込め、目を開けていられない上に、息が出来なくなるほどだった。

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母は目を瞑り、ハンカチを口に当てて、じっと耐えている。こんな難行苦行の末、やっと汽車は阿波池田の駅に滑り込む。高徳さんか晴意さんが駅まで迎えに出てくれているのが見えたときはとても嬉しかった。私たち3人の煤で汚れた顔を見てよく笑われたものだ。

家に着くと、祖母が「よう来たのう。疲れたじゃろう。」と云って、私たちを優しく迎えてくれた。私はまるで自分の家に戻ったような気がしていた。

阿波池田の町は、山に囲まれた山間にあり、冬は寒く、雪が降ることも多かった。翌日から私はのんびりした冬休みを過ごさせて貰った。雪が舞い、少し積もると嬉しくて中庭で実叔父さんの愛犬”トリス“と戯れたり、晴意さんと雪だるまを作って遊んだ。

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実叔父さんは、とても面白い人だった。実さんは酒好きで、その頃、発売されていたトリスというウイスキイのポケット瓶をほとんどいつもポケットにねじ込んでいた。お気に入りが高じて、遂に愛犬にまでトリスという名を付けてしまったという訳である。

そしてひまがあると巻きタバコを作る機械で、刻んだタバコの葉を一生懸命紙に巻いていた。「コンサイスの辞書の紙で巻いたのが、一番うまいんじゃ。」と、傍で熱心にみている私に教えてくれたものだ。

実叔父さん

時々、実さんと高徳さんが座って、一升瓶を目の前に置き、交代で先の丸い木の棒で額に汗を浮かべながら何度も何十度も突いていた。よく見ると、瓶の中には米が入っている。不思議そうな私に気づき、高徳さんが、「こうやって精米しとるんぞ。やってみるか。」と云って、代わってくれた。5分も力任せに搗くと私は音を上げた。高徳さんは、「あきちゃんには、まだ無理じゃの」と笑いながら交代してくれて搗き続けた。

年末になって父がやって来た。工場が休みになったのだ。父は私たちを伴って、川滝の郷里へ向かった。池田からバスで1時間以上かかって父方の祖父母の家に着く。

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未舗装の山道をぐるぐる回りしながら上り下りする道は、ヒヤヒヤの連続、狭いところでのバスのすれ違いには何度ドキドキさせられたか分からない。

川滝では祖父母や父の兄たちが、私たちを歓待してくれたが、それでも父の里にあまり馴染んでない私はその日も暮れないうちから、早く池田に帰りたかった。父母も一晩泊まっただけで土産に農産物を貰って、再び池田にもどった。

終戦間もない頃で物のない時代だったが、池田で雑炊や芋粥を食べた記憶は全くない。おかずこそ粗末だが、飯はきらきら光る米飯であった。私は茶碗に一杯の制限付き、食べ盛りの叔父たちは、どんぶり一杯の盛りきりだった。

飯に味噌汁と漬物、それにほかほかの焼き味噌。これは、直径5センチほどの浅い皿のふちの両端に穴が開けてある器に生の味噌を盛り、それを火箸に通し、逆さにして七輪にかけて焼いて作るのだが実に美味だった。

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盃一杯のジュースは天上の味?・・・国民学校時代

        国民学校時代 (その6)

昭和22年(1947年)の元旦を、私たち家族は阿波池田で迎えた。正月に祖父の知り合いの猟師さんが祖谷から雉と野兎をぶら下げて、新年の挨拶に見えた。猟師さんは祖父と楽しそうに話しこんで帰って行った。

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叔父たちは正月のご馳走が出来たと云って大喜びで雉と野兎の料理を始めた。「それ、たべるの?」と私が聞くと、「こいつは美味いぞ。料理して食わせてやるけんな」と、実さんが答えてくれた。久さん、実さん、高徳さんの3人の手で雉は羽をむしり取られ、野兎は皮をはがれた。私と晴意さんはそばで一部始終を見ていたが、 私は可哀相でならなかった。

1時間も経たないうちに、雉肉と兎の肉が鉢と大皿に盛られ、食べる用意が整った。ぶつ切りの野菜と肉が大鍋でグツグツ音を立てはじめると、まちかねていた叔父たちの酒盛りが開始された。父もその中に入っている。私も小皿に取って貰った肉をおそるおそる食べたが、あまりおいしいとは思えなかった。初めて、丸裸にされた雉と兎を目前で見たからかもしれない。やがて叔父たちのノド自慢が始まり、のどかな正月の夜は更けていった。

3が日が過ぎると、私たちは池田を後にした。父は背中に大きなリュックを背負い、両手に荷物を持ち、尭を背にした母も風呂敷包みを持っていた。私も重い荷物を担いでいた。中身はほとんどが米や野菜、餅などの食料品で、薬の箱も詰まっていた。「検問に気をつけないかんでよ。」と、駅まで見送りに来た祖母が父母に別れ際に言う声が耳に残った。

当時は買出しを取り締まるための臨検が、経済警察の手でよく行われていた。列車の中での取り締まりはその最たるものだった。私たちの荷物は、見つかると間違いなく没収される品であった。

二人の妹を失って以来、信心深くなっていた母は、列車に乗り込むや口の中でお経を唱え始めた。何事もなく高松に到着、連絡船に乗って宇野へ。再び列車に乗り換えて岡山へ。途中何度か警官の姿を見かけた時は、私までヒヤヒヤした。

無事、岡山駅頭に降り立った時、父母も私までも、くたくたに疲れていた。父がタクシーを呼んで車で我が家に帰り着いたとき、父母は安堵の溜息を漏らしたものである。苦労した甲斐があって、我が家の食料事情は一時的に良くなったが、母はお米だけは貴重品のように小出しにしか使わなかった。

Photo_4 この年の1月から学校給食が開始され、私たちは昼食にパンや牛乳、ジュースなどを頂けることになった。

私にとって未だに忘れられないのが、この時のジュースの味である。今ならコップになみなみと注がれるだろうが、その当時は僅か盃一杯であった。オレンジジュースだったかグレープジュースだっ たか、そこまでは覚えていないが、家から持参の盃に注いでもらって初めて飲んだとき、この世にこんな美味い飲み物があったのかと感激した記憶がある。

3月の末、父が岡山工場から倉敷工場に転勤になり、私は5年生から倉敷の中洲小学校に転校することになった。4月1日、六三三制になり、国民学校は小学校と呼び名が変わった。

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