中学時代

サーカスまがいの大飛球キャッチ!! 中学時代

       第3景 中学時代 (その1)

やがて付属中学の受験の日を迎えた。父の特訓のお蔭だっただろうか、算数は辛うじて及第点、他の学科は平均点以上の出来で、私は無事に岡山青年師範学校付属中学校に入学を許可されたのである。中州小学校の卒業式のあと、S子ちゃんには一度会ったが、彼女は父が四国の西条工場に転勤になったそうで、春からは四国の学校に行くことになったと教えてくれたが、妹と別れるようでちょっと寂しかった。

Photo_7 入学式を迎え、ピカピカの真新しい制服、制帽に身を固め式典に臨むと、ちょっぴり大人に近づいたような気がした。中学生になって英語が初めて教科に増えた。勉強はすべてが新鮮だった。国語、社会、歴史、図工、習字、音楽、それに数学と理科。職業という科目もあった。私は文科系が好きで、理数系はどうも苦手であった。期末試験の結果はそれを見事に証明してくれていた。

入学祝に野球のグローブを四国の叔父がプレゼントしてくれ、父からは万年筆、母には欲しかったスパイクシューズをねだって買って貰った。グローブは皮製だったが、スパイクは布製だ。それでも私は嬉しくて野球をしない時までスパイクを履いて庭や外の道を歩き廻ったものだ。地面に金具の跡が残るのを楽しみながら・・・。

夏休みに入ると、私は池田へ一人で行くことになった。母も一緒の予定だったが、尭と祥仁郎までとなると大変である。生まれて始めての一人旅であった。高松港が見えてくると、いつものことだが四国に来たんだなという実感が湧く。今回は一人だけに余計にその思いが強かった。

                                                            

マラソン桟橋では周りの大人が走るので、私もつられて走った。列車に乗って窓 側に席を取る。窓は以前のような板張りではなく、ちゃんとガラスが入っていた。それでも夏の暑い日のことでほとんどの窓は開いているので、乗客たちはトンネルに入るたびに窓の開け閉めに大童であった。閉めそこなうと忽ち白濁煙の渦となり、煙と一緒に煤煙が目の中に飛び込んでくる。苦労は相変わらずであった。

池田に着くと、祖母や叔父たちが歓迎してくれた。次の日から高徳さんと晴意さんの二人が吉野川へ泳ぎに連れて行ってくれた。この頃の川の水は澄み切っていて、魚の泳ぐ様子や水底の砂まで見える程だった。

「あきちゃんは、飛込みができるか?」と高徳さんが聞くので、私は首を横に振った。すると「教えてやる。」と言って、なんと5メートル程の高さの岩の上に私を連れて行くではないか。「最初は足から飛び込んで高さに慣れるんぞ。」と言い残して、高徳さんは頭から飛び込んでいく。晴意さんも続いて頭から飛び込む。私は暫くびくついて水面をみつめていたが、下から二人が手招きするので、意を決して足から飛び込んだ。

Photo_10 頭の中がツーンとなる。2、3度足から飛び込むのに慣れると、今度はいよいよ頭からだ。高徳さんに飛び込みの姿勢をコーチしてもらい、頭から岩場を蹴って飛び込んだ。ところがイヤというほど水面にお腹をぶつけたのである。水面に浮上してから私はお腹を押さえて呻いた。二人の叔父が非情にも腹を抱えて笑っていたのには少し気分をこわしたが、これも懐かしい思い出のひとつだ。

夕方になると晴意さんと二人で裏庭の盆栽に水を遣る。この頃、祖父は久さんと実さんに店をまかせて盆栽の世話に没頭していた。今のように長いホースや散水器がある訳ではない。バケツに水を汲み、柄杓で一鉢ごとに水をかけてやるのだ。何しろ300鉢以上ともなると、これは中々疲れる仕事であった。

この年の夏、世界水泳大会が行われ、古橋、橋爪の世界新記録の達成を私はラジオにかじりつくようにして夢中で聞いた。

阿波池田の夏を彩る阿波踊りの時期になった。徳島県の町や村で一斉に始まり、池田の町でも朝からよしこの節のお囃子の音が鳴り響き、各町内から“連”が繰り出してくる。老若男女を問わず、浴衣に白足袋を穿いて、踊りながら町中を練り歩くのだ。○○連、××連、△△連と、それぞれ連名を染めこんだ浴衣で3日ほどの間、踊りぬくのである。

叔父たちは全員、連の名の入ったお揃いの浴衣に身を包み白足袋を穿いており、文子叔母さんも女踊りの中に混じっていた。晴意さんまで踊りの輪に溶け込んでいる。

Photo_8  

ひょっとこの面やお多福の面をかぶって面白おかしく踊る者もいれば、泥鰌すくいの真似をして見物人を笑わせる人もいた。『踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らなそんそん。』というお馴染みの言葉のように見物するのはお年寄りか小さい子供が多く、私も踊りたいと思ったものである。夜になって帰ってくると、今度は全員で酒盛りだ。

文子叔母さんは高知の化粧品問屋に嫁いでいたが、阿波女の血が騒いでこの時期には里帰りして踊らずにはいられなかったそうである。

 ひとしきり料理を食べ酒が廻ってくると、叔父たちは再び座敷の中で「チャカチャカ、チャカチャカ」と口でお囃子を入れながら踊り始めた。文子叔母さんまで踊りだす。あっけに取られて見ている私に高徳さんが、「見とらんと、おまはんも踊らんかいや。」Odori と、引っ張り出した。私が見よう見真似で踊り出すと、実さんが「こうやって踊るんぞ。」と教えてくれる。10分も踊ると少しはサマになってきたが、疲れてしまい、その場にへたりこむ始末。何キロもの道を踊り続けるのが、いかに大変か少し分かった気がした。

 楽しかった私の夏休みもアッという間に駆け足で過ぎて行った。真っ黒に日焼けした顔で貰った土産を戦利品よろしく抱えた私は、勇んで我が家に帰還した。

 

 程なく2学期が始まった。10月の中頃、アメリカ大リーグ3Aのサンフランシスコ・シールスが来日、日本各地でプロ野球チームと親善試合を実施した。3Aはメジャーリーグの下のマイナーリーグのチームだったが、日本は7戦連敗、実力の差は如何ともし難かった。岡山球場だったか、倉敷の中州球場であったか定かには記憶していないが、私は久叔父さんに連れて行って貰った覚えがある。試合はともかく、私には試合前のアトラクションの方が面白かった。

 観客席に座って待つこと数10分、バズーカ砲のようなものがホームベース付近に置かれ、ジープを運転してユニホーム姿の中年の男性が入ってきた。何が起こるのかと期待して見守る満員の観客に向かって一礼した男は、手にしたボールを筒先から砲の中に落とし込む。

 ドーンという音がしてボールが天空高く舞い上がると、男は間髪を入れずジープの運転席に乗り込み、センター方向に車をスッ飛ばして行く。そして速度を落として走るジープの上に立ち上がり、落下してくるボールを見事シングルキャッチ。息を詰めて見ていた観衆が拍手喝さいすると、男はジープの上に立ったまま、帽子を脱いで挨拶する。

3回続けて行い、3回とも成功。将に至芸とも云える妙技であった。こうしてアトラクションは満座を魅了して終了した。

肝心の試合の方は、ただただ見ほれるばかりだった。実力の差がありすぎたのである。

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映画開眼 映画との永い”付合い”の始まり 中学時代

              中学時代 (その2)

 

昭和25年(1950年)、私が2年生になった年、朝鮮動乱が勃発した。この戦争は日本にとって経済復興の「天恵」となった。

 この年の4月、山本富士子さんが第一回ミス日本に選ばれた。また「また逢う日まで」が封切られ、ガラス越しのキス・シーンが話題になった。

 

 夏休みに入る前のある日、私は貴重な体験をした。学校で映写会があったのだ。ソ連映画「石の花」である。これは記録映画でしかもカラー作品だった。実にきれいな色をしていたという印象しかないが、これが私の見た最初の映画であった。

 しかし、この頃はまだ野球の方が面白く、放課後は毎日のように学友たちと試合をして遊んでいた。そして家に帰ると、社宅の近くに住んでいた友人と野球のゲームをして楽しむ。勿論、今のゲームに比べると天地の差があった。少年雑誌の付録に付いてきた野球盤という代物である。それでもプロ野球の2チームに分かれて夢中になって戦ったものだ。

 この年、プロ野球界は2リーグに分裂、セントラルリーグとパシフィックリーグに分かれてペナントを争うことになったが、名門巨人と阪神はセントラルリーグに属したのである。私は1リーグ時代から何故か阪神タイガースが好きであった。多分、池田の叔父たちの影響を受けたのだろう。

 1リーグ時代の阪神は強かった。ダイナマイト打線の異名を取るチームで、今でもその打順を覚えている。1番呉、2番金田、3番メガネの別当、4番物干し竿の藤村、5番土井垣、6番本堂・・・と言った具合だ。

 今、2リーグ分裂時のセ・パ両リーグのチーム名を思い出せる人はいるだろうか、もしいらっしゃれば敬意を表したい。

 

 ご参考までに記しておくと

    

(セ・リーグ)①松竹②中日③巨人④阪神⑤大洋⑥西日本⑦国鉄⑧広島

(パ・リーグ)①毎日②南海③大映④阪急⑤西鉄⑥東急⑦近鉄

 

 2リーグ1年目の最終成績順による

 

 1950年の主な物価は・・・

 コーヒー50円 タクシー(最低料金)100円 ピース50円

 10月に入って山陰地方へ修学旅行に行った。実は岡山の附中と倉敷の附中が翌年合併して岡山大学附属中学校として新出発することになり、倉敷の附中は消滅することになったためである。修学旅行を倉敷校と岡山校の2回行けたのは嬉しいことだった。

 旅行は鳥取砂丘、大山、出雲などを周る旅であった。

 11月には再び学校で映画の鑑賞会があり、バレエ映画「赤い靴」を見た。イギリス映画でカラーのバレエ場面は確かに華麗だったが、実際は悲恋映画で、ヒロインのモイラ・シアラーの美しさに見とれ、ラストの列車に飛び込むシーンにショックを受けた。私が映画開眼したのはこの作品からだったように記憶している。   

昭和26年2月、2年間の学び舎に別れを告げ、岡山の校舎へ通うことになり、汽車通学が始まった。

 酒津の社宅から自転車で倉敷駅まで出て、伯備線に乗り、岡山駅に着く。そこから路面電車で東山の校舎へ通学するのだ。汽車通学の学友は多かった。汽車での通学はそれなりに楽しかったが、毎朝6時半には家を出なければならず、朝寝坊の私には辛くもあった。

 

 ところが3月末に父が転勤で岡山工場へ戻ることになり、元の福島の社宅から通うことになった。これはラッキーだった。福島から東山までは、自転車で約40分かかったが、それでも汽車通学するより遥かに楽だった。

 私が映画に狂い出したのは、この頃からである。学校の帰り週に1度は映画館に通った。西部劇、戦争もの、ミュージカル、恋愛物まで、いろんな映画に接したものだ。

  映画館です

Photo

 勿論、学校では中学生一人での入館は禁止されていたが、英語の勉強をするのだと自分で自分を説得していた。それに入場料を払う窓口でも注意されたことは一度もなかった。

 

 高校の受験を控えている3年生なのに、参考書を買うために貰ったお金まで映画代に消えてしまうことも度々だった。こんな事がもし父母に知れようものならどれほど叱られたことか分からない。考えただけでもゾッとするが、映画の魅力に余程取り付かれてしまっていたのだ。

 実際、この頃はよく映画を観た。それも洋画ばかりだ。アボット・コステロの凸凹物、ボッブ・ホープ/ビング・クロスビーの珍道中もの、レッド・スケルトン、ダニー・ケイなどの喜劇は腹を抱えて笑ったものだ。マルクス兄弟の作品ともなると最低2回はみたものである。

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駅馬車

フォード西部劇の古典的名作 これを観ずして西部劇は語れない

 それに西部劇、これにはもう夢中になった。「テキサス決死隊」「拳銃の町」「大平原」「拳銃無宿」「腰抜け2挺拳銃」「西部魂」「サラトガ本線」「死の谷」「駅馬車」「荒野の決闘」「折れた矢」「黄色いリボン」「月下の銃声」「拳銃王」等々、枚挙にいとまがない位だ。

 この頃、ファンになったのはゲーリー・クーパー、ジョン・ウエイン、ランドルフ・スコット、ウィリアム・ホールデン、ジェイムス・スチュアート、ジョエル・マックリー、それにウィリアム・エリオットというB級西部劇専門の役者もいた。

女優ではモーリン・オハラ、ヴァージニア・メイオ、ジューン・アリスン、ジーン・アーサーなどである。

 

 ほんとに今考えても困った奴だったと苦笑を禁じ得ない。この頃観た作品の中で印象に残る作品は数多くあるが、最もインパクトを受けたのはB級西部劇「テキサス決死隊」だった。

 主演はウイリアム・ホールデンで、運命の悪戯から悪事を働き続けるかっての友人と対決しなければならなくなり、危なく倒されそうになった時、以前ホールデンに救われた女性(モナ・フリーマン)が友を射殺するという話だ。友情とは何かを考えさせられる映画であった。

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受験勉強そっちのけで映画館めぐり 中学時代

           中学時代 (その3)

 

 昭和26年(1951年)10月、附中で二度目の修学旅行に行った。私にとっては生まれて初めての九州だった。博多、別府、熊本・・・と各地を回ったが、中でも印象深かったのは別府の地獄めぐりと阿蘇山の火口である。血の池地獄と坊主地獄は特に不気味に思ったものだ。

                                        

拳銃の名手、「ケニー・ダンカン来る」の新聞広告につられて、暮れから家へ遊びに来ていた高徳さんと一緒に西部劇を見に行ったのは、昭和27年(1952年)を迎えた正月のことだった。

 ケニー・ダンカンは俳優ということだったが、西部劇の2、3流役者でなかったか。それでも西部の男に身をやつしガンベルトを腰に巻き2丁拳銃で舞台に現れると、さすがに決まっていた。

 舞台の端にたち、反対側に並べた的に向かって抜く手も見せず連射する。どの的にも中央に穴が開く。次に空き缶を投げ上げ、缶が落ちるより早く撃ち続けると、缶が四度、五度と空中に跳ね上がる。下に落ちた缶は穴だらけだ。

 次は風船撃ちである。ゆらゆら揺れる風船が10個ばかり一斉にはなたれると、間髪を入れず銃声が轟き、風船が次々に破裂して下に落ちていく。場内は拍手の連続だった。

  

 ドキドキしながら見たのは、アメリカ人の少女の頭の上に小さな果物を載せ、男が目隠しをする。それも観客を舞台に上げて、目隠しが本物かどうか確認させ、きつく縛らせる。人々が息を詰めて見守る。まるでウイリアム・テルだと私は思った。緊張の一瞬銃声一発、果物が二つに割れて、頭から吹っ飛ぶ。拳銃は既にホルスターの中に納まっている。場内は拍手の渦だった。高徳さんもこの妙技には唸っていた。実演の迫力が凄かったせいか、映画の西部劇は何を見たのか覚えていない。

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カサブランカ

”君の瞳に乾杯”ボギーの名セリフが溢れる

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心の旅路

忘れられない名作 泣けて 泣けて・・・

私が麻雀を覚えたのはこの頃だ。母は殊の外このゲームが好きで高徳さんが来ていた正月の間、父と高徳さん、それと社宅の人を呼んでガラガラやっていた。社宅の人がたまたま用事が出来て早く帰った時だった。高徳さんが私を呼びに来て「正月は、遊ぶもんぞ。わしが教えちゃるけえ。」といって、私を部屋から連れ出したのである。

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 父母も何も言わず、このとき私は高徳さんから麻雀の手ほどきを受けたのだ。父は家に工場の部下たちを集め、慰労会をかねて晩餐会を開いたり、座敷に3卓から4卓セットし、麻雀大会を開いたりしていた。そんな時は、階下の騒ぎがうるさくて勉強にならず、当時流行っていた鉱石ラジオで駐留軍向けのFENの放送を聴いていた。

Benkyou  やがて、受験の時期が近づいてきた。正月明けからは、さすがに必死になって勉強に取り組んだが、時既に遅し。中学受験の時と違い、父の特訓はなかった。今更、やってみても無理と思ったからだろう。私自身、数学系の能力が欠けていると自覚していたのだから。

 当時の岡山の有名校は操山高校か、朝日高校であったが、母が先生との個人面談でとても合格の見込みはない、と宣告されたそうだ。映画に浮かれていたツケが回って来たのである。他の高校でも無理かもしれないと言われた母は、父と相談して私を母の里、池田の高校に入れることにした。

 昭和27年(1952年)3月、ともかくも私は無事岡山大学附属中学校を卒業、4月から高校生になった。阿波池田の祖母の家に寄宿させて貰い、徳島県立池田高等学校に入学したのである。

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