高校時代

館の梯子で5本観たあの日!! 高校時代

       第4景高校時代 (その1)

 

高1入学記念 最後部左から3人目が私 Photo_2                   池田高校は町を見下ろす高台に位置する。今では高校野球で全国にその名が知れ渡ったが、私が通っていた頃は片田舎の無名高校に過ぎなかった。後年、名前を売った蔦先生は、担任ではなかったが、社会科の先生で何度も授業を受けることが出来たのは幸運だったと云えよう。生徒に慕われる良い先生だったと思う。

 私が池高に入った年(昭和27年4月)、蔦はん(蔦文也氏)は野球部監督になった。池高の教壇に立ったのは昭和26年(1951年)のことだ。社会科の教師としてだった。

 

蔦はんは徳島商業から社会人野球「オール徳島」を経て、昭和25年プロ野球が2リーグ分裂の時、東急フライヤーズ(現日本ハムファイターズ)に投手として入団したが、0勝1敗の記録を残し1年でクビになった。これが蔦はんの球暦である。

当時、蔦先生は熱血漢教師として生徒たちに人気があり、「蔦はん」と呼ばれて慕われていた。授業は楽しかった。

 「おまはんら、目的ちゅうもんを持っとるか。それも半端じゃない、一生を貫くようなドデカイ目的ぞ。何でもええ、そいつを捕まえたら離すなよ。とことん努力するんじゃ、人に何と云われようとかんまん。遣り抜くんじゃ。そうしよるうちに、目的の方からいつか必ず近づいて来る。そしたらすかさず尻尾を掴むんじゃ。目的を達成するにはそれしかない。先生はそう信じとる。」

蔦はんは授業の度に熱弁を振るって私たちに自らの信条を叩き込んでくれた。

その頃の池高野球部はやっと頭角を現し、県代表校も夢ではないと云うところまで来ていたが、いつも行く手を阻むのは徳商だった。ユニフォームに着替えてグラウンドに立つ蔦はんは、容赦なく選手をしごきにしごいていた。つるべ打ちのノックが打ち出され選手がへたり込むと怒声が飛ぶ。「おまはんら、米のメシを食っとるんか!そがいなことじゃ徳商は倒せんぞ!」と。

        
Photo_3 私の叔父、久保添実は阿波池田の町でも名の通った薬局を営んでいたが、蔦はんとは飲み仲間で、叔父からいろんな逸話を聞かせて貰ったことがある。勿論、高名になる前の話しだ。叔父はトリス・ウイスキーのポケット瓶をいつも懐にねじ込みチビチビやるほどの酒好きで、愛犬にまでトリスと命名したほどの飲み助。一方の蔦はんも「わしから酒と野球を取ったら何も残らん。」と言うほどの酒豪。二人は格好の飲み友達だったようである。

池高の監督に就任してからというもの、蔦はんと飲むと如何にして強いチームに育て上げるかその話ばかりで、叔父は辟易することが度々だったと云う。「見ちょれよ、今に徳商を倒しちゃるけえ。わしゃ、池高を日本一のチームに鍛え上げるけえの。」と大声をあげて喚いたこともあったらしい。そして、試合に負ける度に飲んで荒れる。特に徳商に大敗した時などは大荒れだったそうである。グデングデンに酔って深夜の町を二人で高歌放吟して歩き、交通標識の方向は反対を向ける、郵便ポストを二人で持ち上げようとウンウン唸りながら格闘したこともあったという。まことに蔦はんらしい逸話である。

 昭和46年(1971年)夏甲子園初出場、49(1974年)年春にはセンバツ初出場し「さわやかイレブン」で話題をさらい準優勝。54年(1979年)春、土砂降りの雨の中、東洋大姫路と演じた決戦は球史に残る壮絶な戦いだった。この時も準々決勝で涙を呑む。そして54年(1979年)夏、連続出場に沸く阿波池田の熱い声援を受けて戦ったが、決勝戦で惜しくも敗退、全国制覇はならなかった。

 蔦はんは3年計画で選手たちを鍛えた。非力では甲子園で勝てないと悟ったのだ。練習の大半はパワーアップに費やされた。そうして57年(1982年)夏、蔦野球が遂に大輪の花を咲かせた。

Photo_5

「やまびこ打線」の異名をとる池田チームが打ちまくり、相手を叩きのめした。6試合で85安打、うちホームラン7本。高校野球史上空前の猛打であった。そして、遂に優勝、悲願30年、蔦はんの生涯を賭けた夢が稔ったのだ。池田の町はお祭り騒ぎ、蔦はんは一躍名士になったのである。

その晩、私は阿波池田の実叔父にお祝いの電話をした。叔父はもう既に一杯も二杯も飲んでいたのであろう、上気した声で喋りまくった。「あいつは大した男ぞ、とうとうやりおった。苦節30年、あいつの執念は一級品ぞい。今、池田の町は沸きにわいとる。やまびこ颪が吹きまくっとるぞ。わしゃぁのう、嬉しゅうて嬉しゅうて・・・」終わりは涙声でよく聞き取れなかった。

 

 二度の全国制覇を成し遂げ、名実共に池田の名前を全国区にした蔦はんの業績は、この終始変わらぬ一念が成し遂げたのであろう。

                            Photo_8 実叔父 手酌で

 池田の名誉町民として功なり名遂げた蔦はんも今では故人となられ、これも数年前物故した実叔父と、あの世で酒を酌み交わしているかもしれない。ここに改めてお二人のご冥福を心から祈りたい。合掌。

 話は元に戻る。池高時代の私の友人は二人だけである。一人は米屋の息子のI君、もう一人は医者の息子、S君だった。I君とは映画好きということで話が合い、一緒に良く映画を見に行ったものだ。池田には池田館と春日座と言う名前の二館しかなく、邦画ばかり上映していた。洋画は月に一、二度かかるだけで、それも一日だけか精々二日どまりであった。私は洋画がかかると、ほとんど欠かさず見に行ったものだ。I君はダニエル・ダリューの大ファンで彼の部屋には彼女の写真の切抜きが至る所に飾ってあった。

 初めてタバコを吸ったのは,I君の家でのことだった。彼は高校に入学後、好奇心からタバコに手を出し親に隠れて自室で時々吸っていたようだ。吸ってみろ、と言われて私もついその気になりタバコを咥え、火をつけて吸ってみた。煙を吸い込むや、忽ち咳き込んだ。この時の苦しさはひどいものだった。こんな不味いものをよく吸うなと思ったものだが、それでいて大学に入るとプカプカやり出したのだからお笑いである。タバコを吸ったからといって、I君が素行の悪い生徒だったという訳ではなく、至って真面目な若者であった。彼の名誉のために記しておかねばなるまい。

 もう一人の友人S君は、将来は医者志望と云うだけあって成績優秀な学生だった。スポーツマンで庭球部に籍を置き、放課後はテニスコートでいつもラケットを振っていた。彼は本を読むのが好きで、本好きの私とはよく文学の話を交わした。彼は理数系に強く、中間試験や期末試験の頃になると、数学や幾何、物理などを教えてもらいに、彼の家によく通ったものだ。

 この年の6月10日、病床にあった祖父、真四郎が死去した。享年68歳であった。お葬式は家で行われたが、それは盛大なものだった。

 久保添家の宗旨は日蓮宗で、お寺からきらびやかな法衣を着た坊さんが6人も来たのには驚いた。別れを惜しむ参列の人の波は家の奥の豪華な祭壇の前から表通りまでぎっしりだった。

 喪主は実さんが務めた。それというのも長兄忠司さんは家を出て帰ってきたことがなく、次男の久さんも1年ほど前に家を出て高知県で薬屋を開業、阿波池田の店の跡取りは実さんになっていたからである。

 お通夜、葬式と2日続いた弔問客の接待で、実叔父さんはくたくたに疲れていたが、それでも酒を呑んで来客と語り合っていた。

 台所も戦場と化していた。祖母の指揮で実さんの妻の喜久子叔母さん、文子叔母、それに母の3人が手伝いの人も交えて大車輪で駆け回っていたのを覚えている。終わって身内だけの宴になったとき、実さんが、「わしゃ、今度と言う今度だけはどれだけ飲んだか覚えとらん。わしまで死ぬかと思ったぞ。」と云ったものである。

 程なく高校生になって初めての夏休みがやって来た。私は岡山の家には帰らなかった。実叔父さんに休みになったら、店と倉庫の在庫調べと商品の整理を手伝ってくれと頼まれてからだ。

 店の中の棚卸だけでも大変なのに、中庭の蔵と店の横の大きな倉庫も加えると、1週間や10日で出来る仕事ではなかった。店の使用人の人と、晴意さんの3人で1日かかっても僅かしか進まなかった。

 返品期限の切れた医薬品、メーカーから送られてきた商品などが倉庫には山のように積まれていたのである。それを一つ一つ整理しながら記録して行く作業は大ごとだった。お世話になっているお礼にと軽く考えていた私だったが、疲労困憊の毎日であった。

 そんな夏の日の一日、私はI君と徳島まで遊びに行った。もちろん映画、それも洋画を見るためである。

 朝早く阿波池田を経ち、九時前に徳島駅に着く。それぞれが見たいものを一本ずつ一緒に見て、あとはどうするか考えようということにして開館したばかりの映画館に飛び込んだ。

≪見ておきたい名画≫

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アニーよ銃をとれ

ベティ・ハットンが強烈な個性で好演した名画

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巴里のアメリカ人

ミュージカル映画の至宝

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硫黄島の砂

太平洋戦争の激戦地、硫黄島上陸作戦の全貌を描いたスペクタクル巨編

 

まずはI君の見たがっていたダニエル・ダリュー主演の「うたかたの恋」、次に私が選んだ「アニーよ銃をとれ」。昼食は映画を見ながら、売店のパンと牛乳ですませた。続いて西部劇とミュージカル,戦争物を見て館を後にした時は、すっかり夜になっていた。池田に着いたのは10時を回っていたと記憶している。

 

館のハシゴをして1日5本はさすがに初めてで、帰りの車中では見た感想を喋りあい、池田までの時間はアッと云う間だった。大いに疲れたが、実に心地よい疲れであった。

 翌日からは又倉庫の整理、夏休み終了前になんとか終えることが出来てホッとした。実叔父からバイト料をたんまり頂いたのは嬉しかった。

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映画館巡りの日々 高校時代

         高校時代 (その2)

 

 2学期が始まり秋になった。私はこの季節が一年の中で一番好きだ。しかもこの年ほど大満足したことはない。

 Photo 松茸をたらふく食べることが出来た思い出があるからだ。松茸の吸い物、天婦羅、それにもまして美味かったのは焼松茸だ。焼いたばかりの松茸を手でむしって、それに徳島名産のスダチを絞って醤油で食べる。まさに天下一品の味で、量は食べきれない程あった。これが毎日のように続いたのである。今ではとてもありつけない松茸だが、恐らくこの時に一生分食べてしまったのかもしれない。

 雪が舞う頃になり路面がぬかるんでくると、私やI君、S君まで高下駄を穿いて道を歩いた、Photo_2

私は晴れた日でもそれを穿いたまま、カランコロン言わせながら、映画を見に通ったものだ。

 この時期には日本映画を良く見に行った。大河内伝次郎や嵐寛十郎のチャンバラ、高峰三枝子や津島恵子の主演作品などだった。

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魔像

阪妻の一人二役が光る痛快時代劇 津島恵子もいい

邦画もいいもんだと思ったのは池田で過ごした収穫だったかもしれない。ともかくよく見た。それでも池田高校での成績はそれほど悪くはなかったように思う。

昭和28年(1953年)の春、私は転入試験を受け、大阪府立豊中高校へ転入学した。父がクラレ岡山工場から大阪本社勤務になり、豊中市蛍ヶ池の社宅に転宅したからだ。

Photo_3 蛍ヶ池の家は社宅と言っても一軒家で、駅から5分程の洒落た洋館建ての建物だった。二階の洋間が私の部屋になったが、ベランダに出ると阪急電車の走るのが間近に見えた。大阪の高校に移れたことを私はとても喜んでいた。好きな洋画が幾らでも見に行けることが嬉しかったのだ。

学校では早速二人の友人が出来た。Y君とT君である。この二人とは妙にウマが合い休み時間も学校の帰りも一緒だった。

程なく、私はY君の強引な誘いに負けて運動部に入った。タッチ・フットボール部である。これはアメリカン・フットボールの高校生版で、タックルは危険なのでその代わりに背中をタッチするという仕組みだ。俗にアメラグとも呼んだ。Photo_4

放課後、毎日のように練習があった。最初はあの楕円形のボールを投げるのが一苦労だった。それでもY君の指導よろしきを得て、すぐにコツを覚え遠投が出来るようになった。ほとんど運動をしていなかった私には練習はきつかった。練習試合、定期戦と相手は池田高校が多かった。池高と言っても,大阪府立池田高校である。相手が関学となるとまるで歯がたたなかった。

Y君とは二人でよくミナミまで映画を観に行った。私は本編の映画が目的だったが、彼が見に行くのはニュース映画で、僅か数分のアメリカン・フットボールの実写だった。映画帰りの電車の中でも、彼の話はフォーメーションはTフォーメーションが一番だとか、あのロングパスは見事だったとか、フットボールのことばかりで、肝心の映画の話はほとんど出なかった。

Photo_5 この当時、伊丹空港は米軍に接収されており、イタミ・エアベースと呼ばれていた。そのため我が家の横を通る道は、ベースから蛍池や豊中の歓楽街に遊びに行く兵隊たちの通路になっていて、夜になると女性同伴のGIたちの喚き声や女の嬌声が毎晩のように聞こえてきたものだ

これには勉強にならず、さすがに参った。二階のベランダに出て眼下を見下ろすと、抱き合ってキスしたまま動かない二人、女ともつれながら歩いている男など、さまざまな姿態を見せてくれたものだ。アメリカ映画でよく観るシーンだったが、現実に見るのはめったにあることではなく、最初のうちは興味津々だったが、そのうち見飽きてしまった。

そんな影響もあったのかどうか映画には益々のめりこむようになり、愛読書はもっぱら「映画の友」だった。これは後年、(サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ)で一世を風靡した淀川長治氏が編集長をしていた映画雑誌だ。

      Photo_7

この本で見つけたスターのアドレスへファンレターをよく書いたのもこの頃のことである。勿論、英語でだ。そしてジューン・アリスン、モーリン・オハラ、デビー・レイノルズなど、名だたるスター女優からサイン入り写真を貰った時はホクホクしたものだった。

上の写真は私が大のファンだったモーリン・オハラからもらった私の名前入りのサインポートレートである。高校の頃から大事に秘蔵している私の宝物だ。

彼女の作品はほとんど見ている。中でもフォード作品「わが谷は緑なりき」「静かなる男」「リオグランデの砦」は忘れられない。”テクニカラーのクィーン”という称号は彼女のために生まれたといえよう。

≪見ておきたい名画≫

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わが谷は緑なりき

フォードが謳いあげた良き時代と深い家族愛

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静かなる男

4分間に及ぶ大格闘のシーンは見せ場のひとつ

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リオ・グランデの砦

親子愛・夫婦愛の中に騎兵隊魂を描いた傑作

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オードリー 新鮮度120%のデビュー 感動!! 高校時代

         高校時代 (その3)

  昭和29年(1954年)2月、マリリン・モンローが来日した。ジョー・ディマジオとの新婚旅行だったが、マスコミはマリリン一人に殺到し、さすがの大リーガーもむくれたそうである。

3月に入ると、東京方面修学旅行があった。本郷の東大時計台を眺めて、私は親父が東大生だった頃を偲んでみた。都内観光のあと熱海で一泊、伊豆大島、三原山、芦ノ湖を周って帰阪した。旅行中はいつもY、T両君と一緒だった。

4月、3年生に進級し大学受験を控え、勉強もおろそかに出来なくなった。私の成績は相変わらず理数系が悪く、文科系が良いという傾向が続いており、嫌いでも理数系に力を入れなくては成績の向上は望めなかった。

4月末、「ローマの休日」が封切られた。同じクラスの写真屋の息子、K君が早速観て来たそうで、それも映画館にカメラを持ち込んでいろいろな場面を盗み撮りしてきていた。誰もが主演女優オードリーの写真を欲しがった。

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ローマの休日

気品と妖精の愛らしさ 爽やかな「夢物語」

彼はクラスメートから写真の注文を取り、焼き増し費用を徴収して少しは儲けたようであった。私も1枚だけ注文して彼を儲けさせた口だ。            Photo_2       オードリー

この年の夏、フットボールの近畿大会があり、豊中高校は籤運にも恵まれ、ブロックの決勝戦に駒を進めた。決勝戦の相手は彦根高校で、戦いは彦根グランドで行われ、13-0で一蹴してブロック優勝を成し遂げた。私もセンターで優勝に貢献でき、嬉しかった。この時のY君の活躍は素晴らしいものであった。

前列左から三人目

Photo_4 その数日後、祝勝会が我が家で行われた。現役部員と先輩を合わせて20人程が集まり、食べかつ飲んだ。飲んだと云っても酒類は勿論なしだ。話題は優勝戦の話に終始した。食べ盛りの連中ばかりで、母は寿司屋に2度、3度と追加注文する始末だった。会費を安く抑えるために我が家を提供したのだったが、予算を遥かにオーバーし、不足分は先輩数人が分担して負担してくれた。

夏休みは補習授業と受験勉強に明け暮れ、映画見物に費やす時間はなかった。それでも息抜きと称して映画館には時々行ったものだ。

この年の夏のことだったと思う。8歳の弟、尭が蛍ヶ池駅近くの池の傍でトンボ採りをしていて、池に落ち込んで溺れ、通行中の若い男性に助けられたことがある。一度水中に沈んで浮き上がってきたところを発見し飛び込んで救ってくれたそうで、本当に危ないところだった。その時、私は補習授業に行っており、母に話を聞いて驚いた記憶がある。

やがて、新学期が始まった。この年、学校帰りにY、T両君と電気屋の街頭テレビに立ち寄ってはプロレス中継を良く見た。

テレビ放送は前年始まったばかりで、テレビはまだまだ庶民の手の届かない品物だった。テレビの前は黒山の人だかりで、力道山・木村対シャープ兄弟の試合を息を詰めて見守ったものだ。散々力道山が痛めつけられた後、伝家の宝刀空手チョップを炸裂させると観客はワッとどよめく。「もっとやれ!」「いてまえ!」と歓声が上がり、空手チョップでリングから転がり落ちたシャープ兄が、観客席の椅子を掴んでリングに上がるや、椅子を振り上げて力道山に襲いかかる。すかさず空手チョップが喉元に飛ぶ。リングから転がり落ちるシャープ兄。テレビ前の観客は興奮のるつぼだ。

悪玉シャープ兄弟と善玉力道山・木村の構図でプロレスは大人気番組になったと云えよう。映画の世界では11月に封切られた『ゴジラ』が大ヒット作品になった。懐かしくも古き良き時代であった。

Y、T両君とは今もお付き合いがある。このところご無沙汰続きだが、お会いして旧交を温めたいと思っている。お互いに元気でがんばりたい。

年が変わり、大学受験が目前に迫った。受験校をどこに決めるかは私にとって大問題だった。丁度その頃、同志社大学のアメリカン・フットボール部から推薦入学の誘いが私とY君に届いた。私は大学で運動部に入るつもりはなかったので断り、Y君は迷ったようだが、やはり断った。

父母からは関西の大学にするように言われていたが、私は東京へ行きたかった。父の進んだ東大は論外だったが、東京六大学のどこかに入りたいと思っていた。第1志望は早稲田、第2志望は明治か立教である。幸いその3校の試験日が別の日だったので、3つ受けることにし、両親を説得した。

父母は渋々同意してくれ、父のすぐ上の兄、利一叔父さんが神奈川県川崎市に住んでいるので受験中はそこで泊まるように世話をしてくれた。

程なく運命の日がやって来た。私は勇躍東京へ向かった。利一叔父宅は川崎市尻手にあり、叔母と4人姉妹の女系家族で食事時は実に賑やかだった。気さくにいろいろ話しかけてくれるのだが、どうにも居心地が悪く言葉を返すのがやっとの有様だ。若い女性にあまり慣れてなかったせいと思う。

早稲田を手始めに立教、明治と試験の日が続き、受験は完了した。大きなミスこそなかったが、合格間違いなしの自信はなかった。発表までの間、叔父宅の世話になり、有楽町、銀座、渋谷、新宿ともっぱら映画を観て歩いた。

早稲田の合格発表の日、掲示板に私の受験番号はなかった。続く立教も涙を呑んだ。最後の期待は明治にかかっていたが、私は発表前に帰阪することにした。運を天にまかせようと思ったのである。と言うよりも試験に落ちた悔しさ、空しさを三度も続けて味わいたくなかったのが本音だ。

明治からの合格通知は・・・やはり駄目だったかと思い予備校探しを始めたところへ、なんと合格通知が届いたではないか。まさに地獄から天国であった。こうして私は昭和30年(1955年)4月、明治大学商学部商学科に入学することが出来たのである。

≪見ておきたい名画≫

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風と共に去りぬ

スカーレットは呟く”明日は新しい風が吹くわ”

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誰が為に鐘は鳴る

メロドラマの絶品 バーグマンが愛らしい

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シェーン

西部劇の交響詩 ”ジョーイ、両親を大切にするんだよ””シェーン!!”

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