ソノ・レコード/ノーベル書房・ノーベルプロ

ソノ・シートって何???

      ソノ・レコード/ ノーベル書房時代(その1)

ソノ・シートという薄いペラペラの丸いディスクをご存知だろうか。レコード盤のように溝が彫ってあり、蓄音機にかけて針を乗せると音が出た。レコードの簡易版というやつだ。これが良く売れたらしい。それとファニーペットと名づけた動物人形を12種類作成して通信販売を行っていた。また「田崎英会話教室」をソノ・シートを使って販売していた。

私が入ったときは、ソノ・シートの全盛期は過ぎており、売り上げは下降線を辿っていたようだ。社屋は東京都新宿区西大久保1丁目の西北ビルというところにあった。社員はざっと20人位いただろうか。社長の山本一哉氏は芸術家タイプの人で、同じビルに住んでいる作家の田村泰次郎氏と親交があった。

田村氏は「肉体の門」「春婦伝」等で知られる肉体派の作家で、何度かお見かけしたことがある。

当初、私の仕事は車の運転だった。免許は昭和40年12月に調布自動車学校に通い、Photo_2 試験場で無事にパスしたのだ。毎日、車で通販の商品を郵便局まで運んでいくのが仕事であった。それと返品されてくる商品の整理だ。

また、埼玉、高崎、群馬県までソノ・シートの引き上げに連日のように走ったこともある。地方の町の本屋さんへ委託販売していた商品を引き上げてくるのだ。これは結構疲れる仕事だった。ほとんど吾妻君が一緒だったと記憶している。

この年、昭和41年10月14日午後12時33分に長男、弘一郎が産声を挙げた。しかもこの年は丙午で出生率は相当ダウンしたらしい。丙午生まれの女性は、気性が激しく、夫を尻に敷き、夫の命を縮める(ひのえうまの女は男を食い殺す)とまで、一般庶民の間ではそう言われており、結婚を避ける風習があった。迷信とは云え、避けたくなるのが人情だろうか。幸い生まれたのが男だったので、将来、進学が楽になると喜んだくらいだ。(実際にはそうでもなかったが)

それはともかく親になった気分は”独特の気分”だった。ガンバラなきゃと思ったものである。しかし、息子の顔を見たのは年末帰省してからのことだった。

山本社長はソノ・レコードの傍ら、ノーベル書房と言う名の出版社を設立、大型豪華本写真集を企画・出版、出版業界に殴り込みをかけた。その第一弾が「太平洋戦争名画集」である。

出版社の宣伝マンは面白い??

      ノーベル書房・ノーベルプロ時代 (その2)

出版社を立ち上げると、私は社長に宣伝担当を命じられた。肩書きは一人だけの宣伝課長。おかげで新聞や週刊誌の宣伝広告を勉強させてもらった。

新聞広告は一面最下段によく出したものだ。勿論、原稿は全部自分で書き、社長に見てもらう。OKが出れば広告屋に渡す。売り上げが上がればよし、上がらなければ責任大と言うものだ。

Photo 「太平洋戦争名画集」は売れ行きも結構良かった。ひょっとしたら、あなたのお父さんの書架に保存されているかもしれない。太平洋戦争の数々の名場面がそこには存在している筈だ。

「太平洋戦争名画集」に続いて、「滅びゆく蒸気機関車・関沢新一 写真集」の発刊、「猫と女とモンパルナス・藤田嗣治」、「わが青春・旧制高校」と話題作が続々と出版された。ノーベル書房は”写真集の出版社”として、一躍名前を揚げた。                                                                            次の「竹久夢二」の企画・製作中、車で編集員の成橋氏、吾妻氏等と一緒に伊香保、妙義山、榛名山などを取材で走り回ったのは忘れられない想い出だ。

中でも榛名山にある社長の別荘に泊まった夜の楽しかったこと。その晩は皆でドンチャン騒ぎをしたことも懐かしい。

幸い近隣が離れていたこともあり、どこからも文句はでなかった。

旧制高校生になった気分で・・・!!??? そしてーー

     ノーベル書房・ノーベルプロ時代(その3)

宣伝活動で面白かったのは、「わが青春・旧制高校」のときである。貸衣装屋で旧制高校Photo の学生用の制服やマント、帽子に高下駄などを借り、表紙用の写真撮影に出かけたことがある。モデルは全員社員だ。勿論、私も参加している。右の写真では右側の先頭を歩いているのが私だ。残念だが、この写真は使われなかった。

撮影者はプロカメラマンの剣持加津夫氏である。枯れすすきの生い茂る深大寺付近の一角で、歩いたり、ポーズを取ってみたり、寝そべったりする我々を剣持さんはバシバシ撮り捲るのだ。モデルというのも疲れるものだと知った。出演料など0円だから余計にそう思ったのだろう。

帰りに深大寺で食った深大寺そばは実に旨かった。

これは昭和43年のことである。年が明けた昭和44年、1月24日午前2時05分、長女加容(かよ)が倉敷で生まれた。私は一男一女の父親になったのだ。責任の重さをひしひしと感じた。

44年になり、ノーベルプロの設立がようやく本格化した。私は友田プロと共にノーベルプロに移行し、そちらに専念することになった。

最初の作品は野坂昭如原作の「ゲリラの群れ」の映画化だ。「極道ペテン師」の題名でクランクイン。監督は千野皓司、主演はフランキー・堺、朝丘雪路。取り巻きのペテン師連中には、伴淳三郎、大辻司郎、南利明、曾我廼家明蝶、それに梶芽衣子、松井康子、清川虹子という豪華キャストだ。

最初は大阪ロケからのスタートだったと思う。私は進行役をやらされたが、まだまだ不慣れなこともあり、失敗が多かった。特に資金がショートすることが度重なったものだ。独立プロの映画作りは厳しいものだと思った。

大阪の天満商店街の二階で撮影が始まると野次馬が大勢現われ、整理に時間を食ったことを思い出す。フラさんや伴淳さんは撮影の合間には野次馬連中と大声で何事か話している。

心斎橋の千日前跨せん橋で撮影したときは人、人、人の山。フランキーと朝丘雪路が語り合う場面だ。1カットごとに橋のたもとにある喫茶店に雪路さんを観客から逃がすのは大変だった。

ペテンに遭ったような気がした映画界との訣別!!

       ノーベル書房・ノーベルプロ時代 (その4)

大阪ロケを終わって東京に戻った頃から、「極道ペテン師」の撮影続行が難しくなってきた。資金が続かなくなってきたのだ。そして・・・撮影は一旦中止となったのである。役者さんたちの拘束期間も切れてしまった。

スタッフのギャラも未払いがある。私ももう数ヶ月無収入の有様だった。僅かな貯金も忽ち底を尽いてくる。プロデューサーも大変だろうが、こっちも泣きたい毎日だ。おまけに親元から借りた○○万円の金まで返してもらってないのだ。

私は遂に意を決してプロデューサーの友田氏に会い、私にも金をまわせと談判した。妻と子供二人を抱えてやっていけないことは眼に見えている。当座の資金と云って、いくらかでもくれたなら我慢していただろう。だが、答えは違っていた。

「金はないんだ。どうしてやりようもない・・・・・」という冷たいことばだ。

「このままじゃ、子供たちが日干しになります。今日限りで辞めさせてもらいます!」

私は叫ぶように云って、家に戻ると妻の嘉子に事情を話し、「東京を引き上げることにした」、といった。さすがに妻はびっくりしたようだった。

「どうするの? これから・・・」

「大阪に帰ってから考える」

寝ている子供たちの無邪気な顔をみながら、そう答えることしか私には出来なかった。

こうして長年住み慣れた東京を離れ、大阪・堺にある親元へ帰ることになったのだ。日活も以前のような黄金時代はうそのようにかげりが見え始めていた。それにしてもこんな形で映画界と別れることになろうとは、人生ってやつは先の見えない曲がり道だな、そう思った。

東京を次第に離れ、新幹線の車窓から見た富士山に私は別れを告げた。いつかまた東京へくることがあるだろうか。もう二度と東京に住むことは無いだろう、私は夕焼けに染まる富士山を見ながら、そう思うのだった。

その後、友田氏からも山本社長からも何の連絡もなかった。大阪ロケのとき、実家で借りた金までとうとう返しては貰えなかった。嗚呼、無情!!

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